- 事務所名:
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株式会社 於保商店。
- 代表者:
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於保 貴久
- 事務所エリア:
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福岡県
- 開業年:
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2010年10月
- 従業員数:
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5名
目次
Q.現在の事業内容を教えてください
「現在は『モヒカンらーめん』というラーメン店を2店舗展開しております。2000年の7月に開店しましたので、もう23年になりますね。」
Q.創業のきっかけは、どのようなものだったのですか?
「もともと30歳で独立するという目標を持っていたものの、修行に入った先で可愛がっていただいて、給与などそこそこ良い待遇を受けていたものですから、いつの間にか”このまま雇われの身でも良いかな”と思いはじめていました。そんな時、ポール J. マイヤーが創設したSMIに出会い、プログラムを通じて改めて目標設定をしたところ、やはり自分の作り出したい幸福というものは、自らリーダーシップを取らなければ思い描いた人生として形にはできないなと思ったんです。
それで29歳の時に勤め先を辞めて独立しました。開業当初は『味壱家』という店名で、”味”を追求する、その味を以て”壱”を成す、感動を作ろうという意味が込められています。ちょうど長男が妻のお腹に入っていたタイミングでもありましたので、家族を作っていこう、そしてラーメンをコンテンツとしてファミリーのような仲間を作っていきたいなという気持ちでいましたね。
店名を変えた経緯としては、実は店舗を構える前、ハイエースに荷物を積んでラーメンをイベントで売り歩いていた時期があったんですよね。当時はオートバイのレースをやっていたこともあってサーキット場へ足を運んでいたところ、店名を聞かれた時に”モヒカンらーめんです”と答えていたのですが、そのうち熊本や大分など他県のお客さんから店名が一致していないと分からないだろうと言われ、合体させて『モヒカンらーめん 味壱家』になりました。
ネーミングとしてキャッチーですよね。『味壱家』だけですと家系ラーメンと混同され、東京から来たお客さんなどから勘違いされていたようなこともありましたので、もう屋号から『モヒカン』は外さずに、この髪型に対する覚悟の現れとしても残しておこうかと。
そもそも何故モヒカンなのかと言いますと、ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』という映画がありますよね、デ・ニーロはトラビスという退役軍人の役なのですが、私も元自衛官なんですよ。今の私からは想像がつかないかもしれませんが、命令を聞くまで動いてはいけない、はみ出してはいけない、遅れても進めすぎてもいけないという、ある意味で究極の指示待ち軍団に4年間属していたため、思考がフリーズしてしまって自分で考えるための一歩が出ないんです、命令が来るまで仕事ができないという感じで。
そうしてなんとなく社会に溶け込めないでいる時に、タクシードライバーを何度も観てシンパシーを感じていた訳ですが、トラビスは最後、ギャングのシマへ殴り込みに行く時にモヒカンにして行くんですね。私なりにこれは覚悟だなぁと思いまして。よく武道で言う”不退”ですよね、トラビスは後ろに退かない、絶対に戻っちゃいけないなという覚悟でモヒカンにしているので、今では割とおちゃらけた感じに見えるかもしれませんが、私も同じように絶対後に退けない、もうみじめな思いをしたくない、子どもたちにそんな姿は見せたくないという思いでモヒカンにしています。
人目が気にならないのかとも言われますが、これがビビられるでもなく、意外と人を笑顔にするんですよね、モヒカンはコンテンツなんです。もちろん眉間に皺を寄せているとまた違うと思いますが、ニコニコしていればお笑い芸人にしか見えませんので、ファーストインパクトとしてはカッコつけてロン毛にしたりお洒落な髪型にするよりも、これが一番いいなと思っています。」
Q.御社の成功要因を分析すると、どうなりますか?
「やはり私は人を笑わせたいとか喜ばせたいという気持ちが根底にあって、人に喜んでいただくのが自分の存在価値だと思っているようなところがあるんです。人が笑顔になることで自分自身が承認されていると感じる、それを弟子にもしっかり伝えていると思いますので、そのあたりでしょうかね。もっとお値段以上の商品を出そうねと言っています。」
Q.過去、もっとも経営が厳しかったとき、どのようなことがありましたか?どう乗り越えましたか?
「8年間、全く鳴かず飛ばずだったんですよ。もちろん直近ではコロナや熊本の震災などキツいことはありましたが、一番もう絶望だなと感じたのは6年〜7年目あたりで家賃を半年滞納して、電気もガスも止められ、都度ボンベを買いに行っていた、あの頃ですね。水道が止められるのは最後の最後なんですよ、本当にもう絶望的な状況でした。
でもその都度、誰かが助けてくれるんですよね。当時、常連で来ていたお客さんからラーメン作りを教えて、何度もお断りしていましたが、お金に困っていたこともあり、渋々ながら高額を提示したらなんとOKで。結局そのお金で救われた格好になりましたから、その人にラーメンを教えて出店のプロデュースまで請け負ったのですが、本当にきつかったですね。独善的なタイプの人でしたので、こちらがいくら理念や正論を言っても、自分を否定されたと言いがかりをつけては理不尽に威圧してくるようなことばかりで。
それでもお金をいただいている以上は成功してもらいたいと、とにかく我慢して平身低頭ではいたものの、借金が清算できる額をいただいていたので、もうお店を辞めようとまで思いました。なんとかやってきたけど、もう無理だなぁと。それでずっとファンでいてくれた一番の常連さんに、もう無理だと、これ以上は誰も幸せにできないから辞めようと思うと伝えたんです。
すると、”於保ちゃんのラーメンはもうとにかく美味しい、オレの友達もここのラーメンが大好きだ。でも店がちょっとボロボロすぎるのかもね”と言われて、確かにボロボロの店でやっていたんですよね。手元の残金を聞かれたので答えると、もう最後の手段としてそのお金で改装しようよと、俺たち手弁当で手伝うからと言ってくれて、その方は電気屋さんの部長だったので、工務店で現場監督をしている友人などの戦力を集めてくれました。ちょうどクリスマスイブの前日あたりの時期でしたが、建具や資材なども調達してきてくれて、解体から改装まで1か月くらいで終わらせてくれた上に、ちょっとお洒落な美容室のような出来栄えでしたよ。
率先して動いてくれた部長さんは私より4〜5歳年下で、彼が年上だったら甘えるだけだったかもしれませんが、自分より年若い人たちに一肌脱いでもらっておいて、カッコ悪いこと出来ないじゃないですか。その後も何度か苦境はあって、折れそうになることもありましたが、あの人達を裏切れないなぁと思ってしっかりと歯を食いしばりました。あの時はもう、本当に自分の浅はかさと実力不足を感じましたね。
最近では、やはり飲食店にとってコロナの影響は大きかったですよ。黒川さんは顧問のお客さんの様子からお解りかと思いますが、とにかくコロナ後にお客さんが戻らない、特に夜のお客さんが戻らない。当店で言えばコロナ前は16時まで行列で、一息ついてまた17時から行列という感じだったのが、14時で行列が終わるんですよ。お昼は忙しかったねと話していても、その日の夜の売上は昼の売上の5%に届かない、そんな感じでした。
正直これは打つ手がない訳です。コロナ融資の返済も容赦なく始まりますし、実際に今まで好調だった路面の2店舗が赤字に転落してしまい、なんとか博多駅に出店できたのでインバウンド需要で持ちこたえてはいるものの、徐々にキャッシュは減っている、2期分の消費税を支払うと来年は厳しいねという話をしていたところへ、今度は本店が火事に見舞われてしまいました。
ところが、火災が起こった翌月末の残高を確認したところ、1か月も本店の売上が入っていないにも関わらずキャッシュが減っていなかったんです。結局、本店の利益が出ていなかったということで、むしろ固定費と人件費が減った分、少し楽になっていたんですよね。だったらここで急いでもう一度お店を出すのは待って、残った2店舗で頑張ろうと、いうことになりまして、先程お話したハイエースでイベントを回っていた創業時の精神を思い出し、やはり魚がいるところに釣り糸を垂らそうぜと、年明けにキッチンカー事業を始めるべく準備をしているところです。
週末に稼働する形でキッチンカーを社員さんにお任せして、企業内独立のような感じで事業委託をすれば、コロナ禍もあってなかなか給料を上げられなかった分、それぞれが自分で企画を立てて売上を取ることができるので、社員さんの生活も潤うんじゃないかなと思っています。そのために私はキッチンカーを増やすと。
ラーメンのキッチンカーはなかなか無いので、ゆくゆくはフランチャイズもできるなと思っています。店舗のフランチャイズはもう今の時代的にちょっと難しいので、例えば故郷にお店を出したいという人がいたら、平日はお店をやって週末にキッチンカーをやれば良いじゃん、という形で展開できる、そういうアイディアが生まれたのも、火事をきっかけにブレイクスルーしたというか、ずっとプレイヤーだったのが経営者としてパソコンに向かう時間が生まれたからこそ、出来たことなのかなという感じです。
ちょっと普通じゃなくて恥ずかしいようにも思いますが、色々なことを経験する中で、生きてるだけで丸儲けというか、乗り越えろ乗り越えろと言われている声は聞こえる気がします。一方で、ブレクスルーしてからは逃げても良いよという声も聞こえていて、何かに集中するためには大義名分を捨ててストーリーから外れることも必要ですから、私はなんと言われても全然大丈夫ですよ、というところでしょうか。」
Q.採用、教育など組織論のポリシーはありますか?
「組織論にはトップダウンやボトムアップなど色々な理論がありますが、もちろん私の方針というものがあって、その方針を汲み取ってもらった上でその人にとって本当に幸福かどうか、というところですね。自分の考えを押し付けるのではなく、もちろん良いものは勧めますが、これが良いんじゃない?と言いながらも人の話を聞く、ボトムアップというよりもコーチングに近いような感じでやっています。
業績を重視して1円でも多く利益を上げるとか、目標を達成することも大事なコミットメントではあるのですが、まずは人の話を聞いて、その人の人生に寄り添うような、ゆくゆくは本当に深い人間関係を作ることが大事だと思います。組織論と言えるものなのかどうか、甘いと言われるかもしれませんけどね。私は今年53歳になるのですが、娘が後を継ぐと言ってくれているので10年後くらいには事業承継できればと思っていて、上手くバトンタッチができるような組織として右腕と左腕を育て、ピラミッド作りをしているところです。」
Q.影響を受けた人は誰ですか?
「一風堂の創業者、河原成美さんの在り方ですかね。あとは取引先の麺屋さん、飄々とした”博多のおいちゃん”という感じの方なのですが、今はその人のやり方を真似していて、ランドマーク的には怒られるかもしれないのですが、トップを狙わない、2位や3位でしっかり利益を出すというスタンスなんです。どういうことかというと、1位を取ると税務署から目をつけられますし、プライスリーダーでもありますから叩かれるリスクがある、それに例えばイベント出店で雨が降るなどしてコケた場合には、大量の在庫を抱えることにもなります。
しかし、2位のポジションで500杯しか売りません、1,000杯を狙いませんよということですと”売り切れ御免”ができるんですよね。1位の半分ほどの利益かもしれませんが、トラブル時の損失を抑えられる、負けない経営ということで、やり方を参考にさせていただいています。在り方としては河原さんの勢いに憧れますが、私は根が小心者ですからね。師匠も破天荒なタイプだったのですが、私はロールス・ロイスよりハイエースが落ち着きますし、田舎のラーメン屋のおいちゃんが性に合っていると思います。
やはり特性というものがあって、私は6人くらいまでのチームだったら小隊長として抜群の力を発揮すると思うんですよ。ですが、数十人規模の中隊長や百人規模の大隊長、千人規模の連隊長となると、恐らく力を発揮できないと思います。戦略的に言えば源頼朝ではなくて楠木正成だなぁと。」
Q.これから生き残っていける企業の条件はどのようなものだと考えますか?
「日創研的に言えば変化に対応するってことなんでしょうし、近いところにあるとは思うのですが、やはり柔軟さではないでしょうか。理念すら変えるほどの、逃げることさえ正当化できるほど柔軟に、自分の弱さを認められるようなマインドセットができるのがリーダー像のように思うんですよね。私はよく茶化すのですが、ナイスガイでは絶対にNever Winだよと、良い奴は捨てようって、やはりそれが漢の中の漢だと。
特にコロナ禍を経験してからなんですが、変化に対応というとちょっとカッコいい表現になってしまいますが、負けを認めて負けから学べるような自分でありたいと思っています。」
Q.今後の展望についてお聞かせください
「先に触れたキッチンカー事業ですね。スタートアップをしたくてもお金がないですとか、もうちょっとお金を稼ぎたいと思っているお父さんやお母さんを応援できるような存在でありたいなと。焼けてしまった店舗跡はアスファルトを敷いて駐車場にしますので、そこにキッチンカーを出してお弁当を売りたければ貸しますよという感じで考えています。もう数千万円かけて店舗展開するよりも、数百万円でキッチンカーをやっていくほうにシフトしようとしているところです。
特に地方ではなかなかベースアップができないのですが、そうした企業にお勤めの方でも子どもを絶対に大学へ行かせてあげたいというような人たちに、お金を貸すのではなくて活躍できる場を提供できるような形、それがキッチンカー事業に繋がっていくと思っているんです。先程お話した通り、うちもなかなか店舗運営だけではベースアップが難しい状況ですので、まずはうちの社員さんをベースモデルにして、週末の副業といった感じで展開していけたら良いなと。
茨城の友人に聞いたのですが、週末だけJリーグの会場へ出ても手取りで20万円弱は見込めるという話なんですね。久留米市は非常に立地が良くて、近隣にサッカーチームの拠点が多数ありますので、一気にキッチンカーを増やせる素地があるんですよ。
また、旧市街地で物件を探して、博多本店を作ろうかとも考えています。博多駅、福岡インター、旧市街地の3店舗でドミナントしつつ、新たにキッチンカーを増やすための拠点としても店舗をもう1つ増やしたいなというところですね。旧市街地は昔のお寺などもあり外国人観光客が多いですから、沢山の方にうちのラーメンを食べていただきたいなと思います。
先程お話した通り、コロナ禍でも火事の時にも、私は色々なピンチの時に人から助けてもらっているんですよね。でも、病気や怪我でお店を畳んでしまった方々も沢山いて、その違いはなんだろうと、仲間とも話していたのですが、恥ずかしくてもしっかり謝ることができるとか、自分の一番近しい人、例えば奥さんにもちゃんとありがとうが言えるとか、そういうのが凄く大事なんだろうねって。
やはり言葉を尊ぶということで、綺麗な言葉を使っていかなければ自分の波動も上がらないでしょうし、運も絶対に来ないよねという話をしていて、これは人のためではなくて自分のためであり、自分の使った言葉が自分に帰ってくると思うんです。自分のためと言いながらも人のためにもなりますし。
あとはやはり学び続けるということでしょうか、カッコつけ過ぎているようで言いたくないですが(笑)。でも自分の知らないことを探求していくって凄く大事なんだろうと思います。黒川さんが持っている好奇心とか、男塾イズムからも学ばせていただきました。ちょっとバカみたいなことでも真剣にやればめっちゃ楽しいですから、どんなことも本気でやれる仲間を今後も増やしていきたいですね。
今日は自分の棚卸しができて感謝しています、我ながら誰にも負けないくらい面白い人生を送っているので、折角ならこの紆余曲折をいずれ本にでも纏めて出そうかな、とも考えています。」
於保貴久
福岡県久留米市出身
中学時代より世界GPに憧れ、オートバイレース参戦を目指してアルバイトに明け暮れる。
地元高校卒業後、
1989年陸上自衛隊に入隊オートバイ部隊を希望するも挫折。
とある事故の責任を負って1992年自衛隊を依願退職。
飲み屋のボーイ、土木作業員を経て地元のラーメン店に修行に入る。
約5年間の修行期間を経て2000年独立開業
2010年法人化
直営6店舗出店するも震災、コロナ、火災消失もあり、現在2店舗とキッチンカーを所有し、現在に至る。
モヒカンラーメンセンター
モヒカンらーめん博多駅デイトス店
モヒカンキッチンカー(不定期営業)

